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近藤さをり

日本在住/ライター、ワイン&グルメ PRスペシャリスト

日本ソムリエ協会認定 ソムリエ、ジャパンビアソムリエ協会認定 ビアソムリエ。大学卒業後に渡独し、日本企業現地法人でのワイン仕入販売担当を経てワイナリーに転職。帰国して洋酒メーカー及びPR会社に勤務した後、独立。カリフォルニアワインのPRに15年以上携わる間、様々な分野の執筆活動も行い、いまに至る。

2025.03.27
column

フリーマン・ヴィンヤード&ワイナリー
世紀を超え紐解かれたファミリーヒストリー

カリフォルニアのワイン王・長澤鼎の遺伝子を受け継ぐ赤星映司ダニエルが、フリーマンのワインメーカーに就任した。それは、本人の意識下にはなかった運命の糸が、彼を先祖ゆかりの土地に手繰り寄せた当然の成り行きだったのか。ふたつの家族が海の向こう側で100年ぶりに再会したグローバルストーリー。

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フリーマン・ヴィンヤード&ワイナリーは、新たなワインメーカーとして赤星映司ダニエルを迎えた。

ワイナリーのオーナーでワインメーカーのアキコ・フリーマンが映司に初めて会ったのは、13年ほど前の日系ワインメーカーの集まり。アキコは映司の人柄に好印象をもつも、ナパ・ヴァレーで働いているからには自身のワインの方向性とは異なると考え、それ以上の関心を寄せることはなかった。

それから10年ほどの時が流れ、アキコが後継者を探し始めたことを人づてに知り、手を挙げたのが映司だった。まずは、アソシエイト・ワインメーカーとして働き始めた映司を知るにつれ、互いの感性やワインづくりに対するフィロソフィーが合うことをアキコは感じ取った。そして、思いがけない縁があることが浮き彫りになった。

赤星映司ダニエルは、貝類養殖専門家の父・赤星静雄のもとに1978年にブラジル・サンパウロに生まれ、幼少期はチリで過ごす。父に連れられ海に山に遊び自然に親しむ中、「手に触れる物のにおいを嗅いだり口に入れてみたりする子どもだった。いまでも嗅覚や味覚で世界を感じるのが喜び」と映司は言う。

ハワイ大学で生物学を専攻するが進路が決まらず、寮でワイン飲みながら思い悩む頭に浮かんだのは、日常的に食卓で仲間とワインを楽しんでいた父の姿だ。ワイン醸造の道に進むべくカリフォルニアに渡る決心を父に伝えると、何代も前に親戚がワインを造っていたという。それは、幕末に留学生として英国に渡り、その後ソノマの地に広大なブドウ園を拓き、アメリカのワインの歴史に名を刻んだ長澤鼎だった。

家系図を辿ると、鼎(本名:磯長彦輔)は、映司の高祖父・赤星弥之助の兄だ。「カリフォルニア州立大学フレズノ校で醸造学の修士号を取得し、自分が家族で初のワインメーカーだと思っていたら、150年も前に先を越されていた」と映司は笑う。

サンタ・ローザ近郊のファウンテングローヴに立ち上げたワイナリーを、8万ケースを生産する規模にまで発展させ、キング・オブ・グレープと呼ばれるほどの尊敬を集めた鼎。ソノマ郡歴史博物館には鼎が醸した1916年のジンファンデルが現存し、これを手にした瞬間、映司は鼎と直につながったような感銘を受けた。

映司の曽祖父・赤星鉄馬は、アメリカから日本に初めてブラックバスを移殖したことで知られる実業家だ。現在の国際文化会館の庭園となっている鳥居坂の地に居住していた鉄馬の邸宅が、1923年に発生の関東大震災で壊れたとき、その土地を購入したのがビジネス上交流があった岩崎弥太郎だった。一方、アキコ・フリーマンの祖母は、岩崎弥太郎の長女・春路の姪。この事実を調べて知ったアキコは、「100年ぶりにまた会えましたわね」と映司にメッセージを送った。

祖先がワイン造りの歴史を築いたファウンテングローヴの地から車で30分とかからない距離のフリーマンの畑の前に立って映司は思う。「自分は理系畑の人間だから運命など信じてこなかったし、ワインメーカーになったのも自身の意思だと思っていた。でも、ここまでくると導かれたとしか思えない」。

父は、自分がワインメーカーを志すまで、祖先の偉業を口にすることはなかった。「身内を自慢するのを美徳としないのが昔の日本人気質」と映司。アキコもこれまで自身の家系について積極的に語ることはなかった。「家族に迷惑が及ぶから」と以前から言っていたが、「家柄でワインを買って欲しくなかった」とも。価値観や文化の異なるアメリカの土地に生きる日本人たちの間に流れる、古きよき日本人の奥ゆかしさ、潔さが見えかくれする。

オーナー兼醸造家としてフリーマンの名声を築き上げてきたアキコは、ディレクター・オブ・ワインメイキングとして、今後もワインづくりにコミットしていく。それでも長年ナパでワインを造ってきた映司が、ソノマの冷涼地域のフリーマンの味筋を継承できるのかは、ファンの多くが案ずるところだ。これについては、アキコが太鼓判を押す。

毎年、醸造チーム内で行なう、ブレンドのコンペ。各自が作ったサンプルをブラインドテイスティングしてもっとも多くの票を集めたものを、その年のフラッグシップ・アイテムとする。敏腕コンサルタントのエド・カーツマンも毎回参加しているにも拘わらず、20年間ずっとアキコが勝ち続け、アキコズ・キュヴェが世に出ている。だが、初めて映司が参戦した2023年ヴィンテージのブレンド合戦で、アキコは映司のサンプルを自分が作ったものだと思ってしまった。それだけふたりの感性は近いのだ。

初めてフリーマンのワインを飲んだとき、鳥肌が立ったという映司。2006年から数えてワインメーカーとして19年、いまほど、意見の食い違いによるストレスを感じずに働ける毎日はなかったと振り返る。「いいものは将来に残したい。完璧な形の追求に、全身全霊で取り組んでいく」と決意表明した。