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岩本順子 Junko Iwamoto

ドイツ在住/ ライター・翻訳家

ライター・翻訳家。ドイツ、ハンブルク在住。1999年にドイツの醸造所で研修。2013年にWSETディプロマ取得。現在ドイツの日本語新聞「ニュースダイジェスト」に「ドイツワイン・ナビゲーター」「ドイツ・ゼクト物語」を連載中。 http://www.junkoiwamoto.com

2018.05.17
column

ドイツ・ハンブルク発 世界のワイン情報 vol.10「復活への道のりを歩む 播州葡萄園」

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年に1度、ハンブルクと故郷の神戸を行き来している。日本滞在は、1、2週間と限られていることが多く、いまだ神戸市と山梨県のワイナリーを1軒ずつしか訪問したことがない。

地元神戸にあるのは、市営の神戸ワイナリー(一般財団法人みのり公社/40ヘクタール)だ。しかし、昨今の日本ワインブーム、もしかするとほかにもワイナリーがあるのではないかと調べてみたら、神戸ワイナリーの至近距離に「播州葡萄園」というワイナリーが「あった」という情報にたどり着いた。

日本初の官営ワイナリー
忘れられた8年間の試み

「播州葡萄園」は1880年(明治13)に明治政府が兵庫県加古郡印南新村(現、加古郡稲美町)に開設した日本初の官営ワイナリーだった。ちなみに、日本初の民間ワイナリーは、1877年創業の大日本山梨葡萄酒会社だ。

「播州葡萄園」では、30ヘクタールのブドウ畑に、ヴィティス・ヴィニフェラ種を中心とする約60品種、19万本以上のブドウ樹が垣根式で栽培され、ワイン醸造、ブランデー蒸留設備が整っていた。設立の目的は、ヨーロッパ品種の中から日本の気候や風土に適応する品種を見つけ、新しい産業としての可能性を探ることだった。

当時、日本のおもな農産物は米だったが、不作年も多く、飢饉も発生していた。明治政府は、欧州ではブドウが農作物の栽培に不適当と思われるような土地でも栽培され、地域産業となっていること、とくにフランスがワインの輸出で成功していることを知り、日本の中山間地域をブドウ栽培に活用できないだろうかと考えたのである。

政府は1872年(明治5)に内藤新宿試験場(後の新宿御苑)を、74年に三田育種場を開設し、約100品種を試験栽培した。しかし、当時の関東は寒冷湿潤で収穫は困難を極め、温暖な関西への移転案が浮上した。

移転は加古郡長の誘致で実現した。当時、瀬戸内海地方は雨が少なく、干害に悩まされていた。印南新村のあたりは水田が少なく、おもに綿が栽培されていた。しかし、安価な外国産の綿が大量に輸入されるようになり、農民は苦しい生活を強いられていた。加えて、地租改正で高額の税が課され、滞納、追徴課税の悪循環に陥り、土地を去る者が多かった。地元の有志は、県に対し、水田用の疎水開発を申し入れていたが、莫大な工事費を理由に交渉は進展しなかった。加古郡長は、地域の存続のため、畑をブドウ園の用地として内務省に売却し、滞納地租を納付し、疏水開発のための国庫金貸付を県から政府に上申してもらおうと考えたのである。

播州葡萄園歴史の館。平成8年以降の発掘調査で見つかった遺物などを展示紹介している。

1880年に加古郡長と地元民の協議が成立し、播州葡萄園の開設が決まった。内務省勧農局からは、葡萄園園長として福羽逸人が派遣された。彼は神戸オリーブ園の指導にも当たっていた園芸のスペシャリストだった。初年には、ヴィティス・ヴィニフェラ種を中心とする43品種、計2万8000本が植えられ、84年には、66品種、19万本に達した。成功したのは、ボルドーの赤品種や、ジンファンデルなどである。葡萄園の成果が政府要人に認められると、疎水開発計画が具体化し、国庫金貸付も実現した。

この頃、播州葡萄園ではブドウの温室栽培においても成果をおさめ、岡山県の農家が技術導入した。1888年には岡山でマスカット・オブ・アレキサンドリアの温室栽培が成功し、現在では岡山名産となっている。
1884年には、収穫量が3.8トンに達していたが、85年にフィロキセラと台風の被害に見舞われ、収穫は0.75トンに落ち込んだ。翌86年、福羽が栽培、醸造の勉強のために渡欧すると、元農商務省大書記官の前田正名が 葡萄園の経営を担当することになった。前田はフランス留学、勤務経験があり、帰国後は三田育種場の場長だった。

1887年には、過去最多の11トンの収穫に恵まれたものの、経営が行き詰まり、葡萄園は88年に神戸オリーブ園とともに売却され、民間の手に渡った。民営時の葡萄園の詳細は不明だが、90年に播州葡萄園のエチケットが商標登録されている。しかし、91年に淡河川疎水が開通すると、印南新村地域では急速に水田化が進み、葡萄畑はどんどん水田に変わっていった。

100年後、葡萄園跡を発見
ワイン復活を目指す


葡萄園池のほとりに、平成元年に立てられた「播州葡萄園跡」の案内板がある。

1996年、印南地区圃場整備工事の際に醸造所の遺構が見つかった。その後の調査により、ワイン醸造場跡、ガラス温室跡、ワインらしき液体の残るボトルなどの遺構や遺物が多数発掘された。06年、播州葡萄園の総面積、約30万平米のうち、重要な遺構が発掘された約5万2000平米が国史跡に指定された。稲美町郷土資料館には、資料や葡萄園の発掘品などが展示されており、播州葡萄園跡の整備、史跡公園化の計画などもある。

ブドウの栽培とワイン造りも、試行錯誤を繰り返しながら進められている。取り組んでいるのは、元酒蔵の7代目で杜氏だった赤松弥一平さんと農学博士の佐藤立夫さんだ。赤松さんは播州葡萄園園主、佐藤さんは醸造長である。

播州葡萄園跡を案内してくださった赤松弥一平さん。

17年の暮れに赤松さんを訪ねた。「02年に、ワイン造り復興の構想を抱いた佐藤さんが、私を訪ねて来たのです。 私はそれまであまりワインに関心がなかったのですが、 話を聞くと非常におもしろく、協力することにしました。葡萄園跡の一角にキャベツ畑をもっていた友人も、協力するよと言って、畑を無償で貸してくれたのです」と赤松さん。こうして「播州葡萄園」は、 30アールで再スタートを切った。

友人のキャベツ畑がブドウ畑に。水田地帯にヨーロッパのような風景が。

03年、ふたりは、過去の資料を参考に、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、ジンファンデル、ソーヴィニヨンブラン、セミヨンなど、この地に適応していた品種の苗を山梨から取り寄せ、計2000本を垣根式で植樹した。醸造は、赤松さん宅の旧酒蔵の一角で行なっている。

ワイン造りはいまのところ試行錯誤の段階だ。09年に500リットルのワインを生産したが、その後3年間は病害に見舞われ、収穫がなかった。13年に再び500リットルの収穫があったが、その後も病害に悩まされて続けている。「14年に、熟成させた09年ヴィンテージの赤ワイン400本をリリースしたら、またたく間に売り切れたのです。でも、その後は思うように収穫が得られません。でも、すでに病害対策を講じているので、18年には再び収穫できるようになると思いますよ」そう赤松さんは言う。

播州葡萄園跡の畑は、その後水田化されたこともあって水はけが悪いなど、問題を抱えている。復興事業の資金は全て自己負担だ。「安定してワインが生産できるようになれば、播州葡萄園の遺構などの史跡も復興する可能性があると思います」と赤松さん。ワイン復活の試みは、15年目に突入したところだ。

稲美町郷土資料館・播州葡萄園歴史の館
兵庫県加古郡稲美町国安1286-55
電話079-492-3770

参考/稲美町教育委員会教育政策部文化課作成資料(2008)