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岩本順子 Junko Iwamoto

ドイツ在住/ ライター・翻訳家

ライター・翻訳家。ドイツ、ハンブルク在住。1999年にドイツの醸造所で研修。2013年にWSETディプロマ取得。現在ドイツの日本語新聞「ニュースダイジェスト」に「ドイツワイン・ナビゲーター」「ドイツ・ゼクト物語」を連載中。 http://www.junkoiwamoto.com

2022.04.11
column

シャンパーニュの地平に歩み寄り、独自の世界を表現し始めたドイツのゼクト ラウムラント前編」〜ドイツ・ハンブルク発 世界のワイン情報 vol.37

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©Oliver Rüther

シャンパーニュとゼクトは18世紀末以降、互いに交流しながら発展した。シャンパーニュ地方はドイツの商人や職人を必要とし、やがてドイツもシャンパーニュの職人を必要とした。ふたつの世界大戦中、その交流は停滞したが、戦後、往来は徐々に復活し始めた。

ドイツではゼクトの醸造方法がどんどん合理化される傾向にあったが、シャンパーニュでは伝統製法が堅く守られており、ドイツの造り手はそれを再発見していく。そして21世紀のいま、ドイツ各地で伝統製法のゼクトが脚光を浴びるようになっている。

ドイツにおいて、新世代の造り手たちが伝統製法を再発見し、高品質のゼクト造りに本格的に挑戦し始めたのは1980年代だ。

モーゼル地方のクラウス・ヘレス(ザンクト・ラウレンティウス)、ファルツ地方のメンガー=クリュッグ家、ラインガウ地方の故ヘルムート・ゾルターやノルベルト・バルドング、ラインヘッセン地方のフォルカー・ラウムラント、バーデン地方のヘルベルト・ライネッカー、ヴュルテンベルク地方のホルスト・シュテンゲルなど、今日の多くのゼクト造りの名手たちは、この時代に続々と醸造所を設立したり、伝統製法のゼクトの生産に傾注し始めた。

彼らの多くはシャンパーニュから技術を学び、異なる条件下で独自にそれを消化し、それぞれの地域的特徴を生かしつつ、高品質のゼクトの生産に努めている。今回は、これら先駆者たちの中から、現在メディアで「ゼクトの教皇」「ゼクト王」などと称されているフォルカー・ラウムラントの仕事を追うことにする。

■始まりはミュラー・トゥルガウ

フレアスハイム=ダールスハイムのヴィラは1990年以降、
ラウムラント家の拠点。
かつては住居、オフィス、テイスティングルームを兼ねていた。

フォルカーはガイゼンハイム大学在学中、醸造実技の授業に参加したことで、ゼクト造りに目覚めたという。当時の授業はほとんどが理論中心で、実技はゼクトの醸造くらいしかなかったそうだ。その実技授業で、学友たちはリースリングやブルゴーニュ系品種のベースワインを調達してきたが、フォルカーだけが、父親が醸造したミュラー・トゥルガウというゼクトにはあまり使われない交配品種を持ち込んだ。

「ゼクトにミュラー・トゥルガウだって?」と、学友たちは半信半疑だったようだが、フォルカーはそれには構わなかった。そして翌年、出来上がった彼のミュラー・トゥルガウのゼクトが、学内で行なわれたスパークリングワインのブラインド・テイスティングで、シャンパーニュやリースリングのゼクトなどを抜いて一位に選ばれた。

フォルカーにとってそれは驚きであり、励みとなった。彼の言葉を借りれば、「すべてはあのミュラー・トゥルガウのゼクトから始まった」のだった。

彼はその後、ファルツ地方の実家でリースリングやショイレーベ、モリオ・ムスカートなど、あらゆる品種のゼクトを試験的に生産してみたと言う。そして、いかなる品種であってもその品種にふさわしい手法を見つけることさえできれば、おいしいゼクトは生まれる、と確信するに至った。

大学卒業後はシュロスグート・ヤンゼンに就職し、4年間にわたってケラーマイスターを勤めたが、その間も寸暇を惜しんで、実家のセラーで1000リットル、2000リットル単位でゼクトを生産した。

やがてフォルカーはごく自然にシャンパーニュを意識するようになり、キュヴェを構成するピノ・ノワール(シュペートブルグンダー)、ムニエ(シュヴァルツリースリング)、シャルドネの3品種に関心を持ちはじめた。しかし当時のドイツでは、ムニエは赤ワインとしてわずかに生産されているだけであり、シャルドネはまだ公式には栽培が認可されていなかった。

■ヴィンツァーゼクトの裏方として活躍

ゼクト造りを本職と決め、独立したのは84年だった。フォルカーは当時、ブドウ畑を持っていなかったこともあり、他の醸造所から委託されたゼクトの生産に力を入れた。86年からは、ゼクトの製造ラインを大型トラックに積載し、各地の醸造所へ出向き、ティラージュを加えたベースワインのボトリングと、瓶内二次発酵を終え、熟成期間を経て出来上がったゼクトのデゴルジュマンを請け負う「モバイル・ゼクトメーカー」業を開始した。

ドイツの小規模のワイナリーでは、ワインのボトリング設備をもたず、必要に応じて業者に設備を運び込んでもらってボトリングを行なうケースがあるが、フォルカーの場合、それをゼクトの製造に特化したのだった。

当初はモーゼル地方で購入したコンパクトなゼクトの生産ラインを顧客のところへ運び込み、現地で組み立ててから作業を行なっていたが、スペースを取ることと、組み立てと分解に手間がかかるのが難点だった。そこで彼は、ドイツ製とフランス製の製造ラインを組み合わせたゼクト生産ラインを、大型トラックの中に丸ごと設置することにした。こうすると到着後すぐに作業が開始でき、ドイツ国内なら大体どこでも日帰りが可能だ。

その頃ドイツでは、伝統製法でオリジナルゼクトを造りたいという醸造家が増えていた。70年代から、協同組合や個人醸造家もゼクトの生産と販売を認可されるようになり、80年代後半にはいると、ゼクトの生産者が徐々に増加し始めたのである。これには、85年に伝統製法のゼクトの呼称、「ヴィンツァーゼクト」が定められ、自社栽培のブドウで上質のゼクトが生産されるようになったことも背景にある。

ドイツで主流のシャルマ製法には、ゼクトの品質が均等になるなどの利点があるが、伝統製法は、風味の豊かさ、泡の繊細さなど、さまざまな点において勝る。それは造り手にとってあまりにも魅力的な商品だった。しかし、小さな醸造所は、スペース的にも経済的にも伝統製法のゼクトの製造設備を整える余裕がない。フォルカーがモバイル・ゼクトメーカー業を開始すると、たちまち100軒近い醸造所から電話が殺到した。それほどまでに、多くの醸造所が高品質のオリジナルゼクトを生産したいと意気込んでいたのだった。

「いまから200年ほど前、ライン地方で働いていたドイツの醸造家たちは、シャンパーニュ地方に出かけ、彼の地との人的交流、技術交流があった。ドイツの不幸は、戦後、大量生産主義に陥り、伝統製法を忘れかけたこと。でも80年代後半から、何百もの小さな醸造所が伝統製法でのゼクト造りに取り組みはじめた。僕がモバイル・ゼクトメーカー業を続けられたのは、これらの意欲的な醸造家たちのおかげなんだ」そうフォルカーは語る。 新しいビジネスは順調にスタートした。

当時彼は、顧客のゼクト造りをサポートするばかりだったが、89年にヴュルテンベルク地方の醸造所の生まれであるハイデ=ローゼ・ヴォアヴァグと結婚、90年にフレアスハイム=ダールスハイムにオフィスを兼ねた新居を構え、4ヘクタールのブドウ畑を購入した。隣接するミョルスハイムには醸造所とセラーのためのスペースを確保した。

フォルカー、ハイデ=ローゼ夫妻。
ゼクト造り一筋で、38年目を迎えた。


最初に入手したのは、石灰岩を豊富に含むローム土壌や貝殻石灰岩などで構成されるビュルゲルと呼ばれる畑で、現在VDPのグローセ・ラーゲに格付けされている。彼は91年以降、この畑のリースリングの古木だけを残し、残りはシャンパーニュを構成する3品種とピノ・ブラン(ヴァイスブルグンダー)に植え替えた。ラインヘッセン地方では、92年にシャルドネの作付けが認可されたばかりだった。

その後、フォルカーは、これも後にVDPグローセ・ラーゲに格付けされる、ホーエン=ズルツェンのキルヒェンシュトゥックを購入したほか、実家の5ヘクタールのブドウ畑を継ぎ、充分な大きさの自社畑を確保した。ラインヘッセン地方とファルツ地方の境界地域に、シャンパーニュ品種を主体とする畑が整い、自社ブドウからオリジナルのゼクトをつくる日が近づいたのだった。

彼の仕事は3つになった。ひとつ目は委託方式でゼクトを生産すること、つまり顧客である醸造所から運び込まれたベースワインをゼクトに仕上げる仕事。ふたつ目は上述のモバイル・ゼクトメーカー業。そして、3つ目がラウムラントのオリジナルゼクトの醸造だ。

委託方式、モバイル方式においては、コンサルタント業務が非常に重要な位置を占める。というのも、ゼクトは瓶内二次発酵後に完成するものであり、ベースワインの段階で完成していてはならない。フォルカーによると、当時のドイツには、そのことをわかっている醸造家はほとんどいなかったそうだ。ドイツ最高峰のワインの造り手でさえ例外ではなかった。ゼクト造りには、通常のワイン造りのノウハウが役にたたない。フォルカーは委託生産を行なう過程で、多くの時間をコンサルタント業に費やした。それは、ブドウの栽培や収穫方法からアッサンブラージュに至るすべての工程に及んだ。

「ゼクトのベースワイン造りは、通常のワイン造りとはまったく違う。優れたワインの造り手が優れたゼクトの造り手であるとは限らない」とは、フォルカーの口からたびたび出てくる言葉だ。

ラウムラントでは、90年代までは委託方式よりもモバイル方式の比率が高かったが、醸造家たちからの信望が厚く、やがてほとんどが委託方式となった。もっとも多い時で、約450の醸造所が同社にゼクト造りを委託していたという。一方のモバイル・ゼクトメーカー業は後に打ち切ることになった。

■ラウムラントのゼクト

長女、マリー=ルイーズの名前が付けられたゼクトは、ピノ・ノワールのブラン・ド・ノワール 2014。トラディションと呼ばれるベーシックなカテゴリーだが、瓶内熟成は36カ月以上。

エチケットにあしらわれたミュズレの王冠のモチーフは日時計。ラウムラントのピノ・ノワール(シュペートブルグンダー)はドイツのクローン、マリアフェルト。バラ房でカビ菌が付きにくく、酸が豊かだという。

右ふたつの白いエチケットのゼクトはレゼルヴで瓶内熟成90カ月以上。シャルドネ 2012と単一畑キルヒェンシュトゥックのピノ・ノワール 2011。ミュズレの王冠のモチーフは砂時計。左の黒いエチケットのゼクトはグラン・レゼルヴで瓶内熟成は120カ月以上。ブラン・ド・ノワール 2008。ミュズレの王冠は天体のモチーフで時間を表現。

ラウムラントでは デゴルジュマンが行なわれた年月をボトルに表示している(このボトルは2021年3月)。

(中編に続く。)

Text:Junko Iwamoto